ベッキー事件

数年前、ベッキーの不倫あったじゃないですか。

アレ、個人的には全然悪いとは思わない。なぜあんなに大騒ぎしたのか分からない。

どーでもいいじゃん。人のことなんて、と言うのが正直なところ。

ただ

一つ

その件でメディアが問題にしなかった問題があると思っている。

まあ、問題と言うほどのことでもないけどね。

 

ベッキー事件で真に重要な事は不倫をしたことではなく、その後の対応がクソだった事にあると思う。

事件以前のベッキーのキャラクターは明るいが、お節介で自分の正義を相手に押し付けるようなところがあった。

事件以前の彼女ならば他人の不倫の話には絶対にNOと行っただろう事は想像に難くない。もしかしたらそう言うことを本当に言っているシーンがあったかもしれないが、ボクは知らない。

とにかく、変な正義感や常識みたいな物を振りかざしているのを何度か見た事がある。

非常に押し付けがましく、私が正しくてあなたが間違っていると言う前提で話しているのがありありと伺えた。

で、そう言う人間がいざ自分が当事者となったら平気でウソをつき人を欺き、平然としている。ボクはそこが最もダメなところだと思っている。

しかし、その事について誰も何も言っていない。いやもしかしたら多少は言ってる人があるのかもしれないが、ほとんど表には出てこなかった。

 

だから、ボク個人の彼女に対する評価は”嘘つき”である。ボクは自分の発言に責任を持たない人が嫌いである。自分がやらないのに人にやらせる奴が嫌いである。自分の正義を人に押し付ける奴が嫌いである。

ハッキリ言って別に嘘をつくのはその人の自由なので構わないが、それによって起こり得る出来事を全て負うことになる覚悟は当然必要だし、当たり前のことである。

 

元々のキャラクターが違っていて、そーゆー(くだらない正義など)ことを言わない人であったなら、ボクは何にも思わなかったと断言出来ます。

あの一連のLINEの件で、最も感じたことは、彼女は人を舐めて、見下していたんだなということ。

まあ、大体ウソをつくという行為自体、相手を見下してないとしない行為だと思いますしね。

そして復帰。

ああいう業界にいる人に一般的な常識を当てはめるのは間違ってると思いますが、流石に図々しいし、根性も座ってるなと思いました。ある意味これは褒め言葉。

ただ、本人が全然わかってないな、と感じる。

世間はおそらく不倫を責めているのではなく、この人はもう信用できないという不信感を持ってしまって、それを今も払拭出来ないでいるから彼女を受け入れないということを。

 

彼女は復帰した後何かの番組で、全然昔みたいには、まだ戻ってないですよ。と言っていたが、戻ると思っているとしたら、かなりおめでたい人である。

 

ボクが大企業の重役なら彼女をCMに絶対に使わない。だって彼女より、若くて可愛くて、聡明で、透明感があって、汚れていない(イメージ的に)人は沢山のいるわけだし、今後も雨後の筍のようにドンドン出てくるわけだから、彼女を使う理由がない。

 

あれは本当に対応を間違えたな、と他人事ながら少し残念に思う。

彼女が零落しようがボクの人生に何の影響も及ぼさないのでどうでもいいんだが、もうちょっとやりようがあったのではないかな、と思う。

 

文春は仕事としては最高の仕事をしたんではなかろうか、ゴシップなんてどれもクソだが、金儲けの観点からすればアレはかなり儲かったんじゃないのかしら。

 

ベッキー、汚れるならとことん汚れなさいよ。あなた中途半端なんですよ。いいとこ取りしようとし過ぎなんですよ。

 

じゃあ、またね。

 

軽急便の地図

軽トラックの荷台が銀色の箱で覆われた配達便をたまに見かけます。

おそらく記憶が確かなら、荷台には何も書いてなかったと思います。

3、4日前、早朝に車でコンビニに寄りました。

ボクがコンビニの駐車場に入るのとほぼ同時に対向車線の車も入ってきました。

ボクは駐車場の駐車線の中に車を停めましたが、その同時に入ってきた車は道路に平行になるような形で入り口付近に車を停めました。

 

その時は全く気にも留めずコンビニの中に入りました。そしてボクが中で買い物をしていると、見知らぬおじさん(もうお爺さんに近い)が突然話しかけてきました。

 

ボクは何か悪い事でもしたのかと、身構えましたが、まあ何の事は無い、道を聞かれただけでした。

がしかし、

それが少し奇妙だったのです。

そのオジさんは言いました。

道を尋ねたいのですが、いいですか?と。

ボクはいいですよ。と答えました。

するとオジさんは、この道(コンビニの前の道)を行けば〇〇に行きますか?と聞きました。

ボクは少なからず驚きました、何故ならば、その〇〇は隣の県の市の名前だったから。

考えてもみて下さい。コンビニの前の、特に大きな道でも無い(田舎の住宅地にある地元の人が使うような道である)ところを真っ直ぐに行って、隣の県の〇〇市につく訳が無いではないですか。

ボクは初めに道を尋ねていいですかと聞かれた時、近所まで来たが細かい住所がわからず迷ったと言う事なのだと、勝手に思い込んでいたので、よりビックリしました。

が、そんな態度はおくびにも出さず、慎重に丁寧に教えてあげました。

しかし、教えてる最中も記憶するばかりでメモもとる気配もなかったので、ボクは大通り(オジさんの望み通り真っ直ぐ行けば目的地に着く国道)までの道のりを教えました。細かいことは言わず、多少大回りでも分かりやすい道を教えてあげました。

 

聞き終わるとオジさんはお礼を言ってコンビニから出て行きました。

早朝で外はまだ真っ暗な中、オジさんの軽トラはコンビニを出てスピードを上げながらボクの教えた最初のカーブを左に曲がったのでした。

オジさんが無事にその街にたどり着けたのか、ボクは知らない。

 

そしてオジさんが去った後のコンビニの駐車場の車の中でボクは考えました。

配送を仕事としている2019年のオジさんは何故地図を持っていないのか。なぜGoogleマップを使わないのか、そして何故、目的地から軽く1時間以上も離れた土地で道を聞くハメになったのか、と。

あまりに不可解ではないですか。大体そんな道を通っていると言う事はおよその現在地は分かっていたはずだし、分かっていないならば何故そんな道を走っていたのか。。。ボクには分からない。現代日本の都市部で道に迷うなんて事が起こるのが。

 

まあ、道を聞くのは構わないけど、携帯(スマホ)も地図も持たずに配達の仕事するなんてあり得るか? 本当に不思議でたまらない。なんか少し気味が悪い感じすらする。

 

オランダに行ったって道に迷わなかったぞ。

Googleマップ、えっら〜〜い💓

 

じゃあ、またね。

 

ブルース・スプリングスティーン

さて、ブルース・スプリングスティーンです。

私苦手です。

この私苦手です、っていうのはもう日本人にはお馴染みのっていうくらい、ネットでよく見ます。

もっと正確にいうと、私苦手です、っていう人多いですよね。っという感じで始まる記事をよく見ます。そして大体、暑苦しいのが苦手なんですよねぇ、私も昔はそうでした云々。。。そして今は良さがわかってどうのこうの。。。的なのが続きます。

 

私の場合あまりフェアじゃない。そもそも熱心に聞いたことがないのに苦手というのは如何なものか。自分でもそう思います。

ですから、今回色々聞いてみました。いつ頃のものかを調べるのも面倒だったので調べてもいませんので時系列的にどうなのかわかりませんが

・Born To Run

・Born  In The U.S.A.

・Nebraska

・The River

・Darkness On the Edge of Town

を聞いてみました(どのアルバムも名前とジャケットは超有名で私のように全くファンでない人間でも知っているレベルのものばかり)。それから1曲だけ別にStreets of Philadelphiaも聞きました、これを聞いた理由は後述します。

結論から言いますと、おそらく初期(歌い方やジャケット写真から判断)と思われる作品が特に苦手らしいことがわかりました。私は尾崎豊もとても苦手だったのでその理由がよくわかりました。確かに暑苦しい。声や歌い方も全く自分には合わなかった。

まあ当然といえば当然で、私の好みはデビッド・ボウイXTCやポリスやレディオヘッドやプリンスなんかですから合うわけがない。

特に名盤と言われているBorn To Runはほぼ全滅です。もう歌が受け付けない。もちろん表題曲の疾走感(ライブ版も聞いたがとてつもなく良かった。これはファンになる人の気持ちはわかる)とか素晴らしいのはわかります。でも歌い方が、声がダメだ。ダメなんです。もう合わないんです。

あと、ダサい。フレーズとかアレンジが。。。例えばBorn To Runのサックスソロ後のCメロ(?)の終わり方とか。。。ダサすぎる。あの当時だってダサかったと思うけどなぁ。何回聞いてもダサい。鳥肌が立つくらいダサい。恥ずかしい。これって尾崎とか元春聞いた時も感じるんだよね。でも、佐野元春はなぜか許せる。なぜだろう? 

佐野元春は多分あまりにもカッコつけ過ぎて、気持ち悪いを一回通り越して、もう元春は元春だからいいや。あそこまでいくと逆にカッコイイよな、になってるからだと思う。

尾崎も元春もパクってる感はあるが、まあそれを言い出すとサザンやらB'zやらミスチルやら山程出てくるからいっても仕方がないし、今回の話に関係ないので言わない。

話が逸れました。

上にも書きましたが私の好みのアーティストとスプリングスティーンの一番の違いは曲の単純さだと思います。単純というとちょっと誤解されそうですが、スプリングスティーンの曲にも凝った作りのものもあるかもしれませんが、そーゆー話ではなくて、曲の展開が予定調和的というか、曲の先の展開が読めるというか。。。早い話つまらない。ドキドキしない。変なコード進行とかあんまりないんじゃなかろーか。聞いててつまらない。

これまた誤解されそうだけど、初めてブルース・スプリングスティーンのアルバムを通して聞いた時少しジャクソン・ブラウンみたいだなと思った。

特に優しげな曲は似てると思うのだが。なんか調べてみると二人とも歌ってる内容も似てますよね。日々の苦悩や葛藤など、市井の人のことを歌っているあたりが。ちなみにどちらの歌詞もまともに読み込んだことはないのでホントにそんなこと歌っているのか知りませんが、ネットで調べるとそうらしい。

つまり曲調も歌ってることも似てるってことになる。

ジャクソン・ブラウンを最初に聞いた時もアメリカで凄く有名だというのが信じられなかった。なんていうか穏やかで、要するに刺激的じゃないし、これは二人に言えることだけど、どこかで聞いたことある感がハンパじゃなかった。

しかし、どこかで聞いたことある感じだけどカッコイイっていうのもあるから、それがダメって訳でもないんだよなぁ。。。難しいなぁ。

ただジャクソン・ブラウンは嫌いじゃなんだよなぁ。まあ、よく聞くと全然違うからね!

やっぱり二人の共通点を私が知らないってのが一番大きいと思うんだな。

つまり、アメリカの現実を。生活を知らないってことが。

 

さて、最初の方に書いた、Streets of Philadelphiaを聞いた経緯について話そう。

宇多田ヒカルっていますよね、私は意外と好きなんです。アルバム一枚も持ってないですけど。ずいぶん前になりますがトラベリングって曲がありましたよね、アレが特に好きでダウンロードで買いました。

で、ある時、その宇多田ヒカルブルース・スプリングスティーンのStreets of Philadelphiaが好きだという記事を読んだんです。しかし、どうにも合点が行かない。

なぜなら彼女の好きなアーティストというのを別の時に読んだことがあって、そこに書かれていたものは自分の趣味と非常近くて共感できるものだったし、ブルース・スプリングスティーンの名前もなかったと記憶していたから。

そこで今回私はStreets of Philadelphiaを初めて聞きました。

いやぁ〜なるほど。ごめんなさい。コレなら分かるわ。

しかも宇多田ヒカルはこの曲以外ブルース・スプリングスティーンの曲を聞いたことがないとのことで、益々なるほどね。という訳でした。

Streets of Philadelphiaに関しては曲も歌い方も、それこそBorn To Runとはまるで違いますから納得でした。確かに映画でコレが流れてきたら好きになるかもなぁと。ちょっとU2っぽい。ボノが歌ってても違和感なし。

 

ということで、苦手な人であってもイイ曲(自分に合った曲)というのは、探せばあるものだな、と。

まあ、言ってもブルース・スプリングスティーン程に成功した超超有名人ともなればそれくらいの才能があって当然という気もしますが。

 

しかし、年老いてより筋肉ムキムキになった容姿は長渕を彷彿とさせ(というか長渕が影響を受けたんだろうが)、いや長渕を想い起こさせなかったとしても、やはり好きにはなれないなあ。

歌ってることはきっとマッチョではないんだろうけど、あの肉体とギターを力任せに弾く姿はやっぱり私の好みに合わない。

 

 

 

 

 

 

Fashion

デビッドボウイの曲の話、ではもちろん無くて、洋服の話である。

ここのところ硬派な話題が続いたので、好きなことの話をしようかなと。

 

最近気が付いたのだけれど、今まで自分が思っていた以上に服(というかファッション全般)が私は好きなんだなと。

高校生の頃ファッションに目覚めた。キッカケは友人にお洒落さんが居たからなのだが、その頃はお金もそれほど無いし、自分に何が似合うのかもよく分かっていなかったから、私自身はお洒落だとは言えなかったと思う(今でも自分ではそう思わない。そもそも、それは他人が判断するものだ)

 

しかし、興味を持ったのは確かだ。

 

私はいわゆる、見栄えのする体型では無いので、実際一般的な体型の人より難しかったはずだが、当時の自分にはそれさえも分かっていなかった。

 

後々、それを痛感することがあった。

服に全く興味がない人は別にして、誰でも多かれ少なかれ経験がある買い物の失敗である。二十歳になるかならないかくらいの頃だったと思う。

 

どうも、家に帰って買ったものを着てみるとオカシイ。いかにも滑稽である。全然似合っていない。しかも当時の自分にはかなり高い買い物であったので心底落ち込んだ。

どのくらい気に食わなかったかと言うと、その日のうちに別の店に売りに行ったほどである。確か半額くらいにはなったがかなりの痛手だった。

 

ここでみんな疑問に思うかもしれない。そんなに気に入らないものをなぜ買ったのか、と。ごもっともな指摘である。当然そう思う。むしろ思ってもらわなければ困る。話が進まない。

 

ハッキリとは覚えていないのだが、色々な要素が絡み合っていたとおもう。

1.買い物経験の浅さ

2.自分に何が似合うのかまだよく分かっていなかった。

3.洋服博覧会のようなイベントで買ったこと。

4.店員のあしらい方を知らなかったこと。

5.ブランド(一般的な高級ブランドでは無い)の物が今ならこの値段で買えると思ってしまったこと。

 

試着して鏡も見たのだが、その時はあまり変に思わなかった。。。なぜだろう。今思えば似合っていない原因は明白で、単純にサイズが合っていなかった。基本のき、である。

もう記憶が定かではないが、おそらく自分自身も会場で鏡を見てた時にしっくりは来ていなかったはずだが上記のような要素が絡み合って購入に至った気がする。

当時の私は非常に可愛らしいウブな人間だったのだなぁ、と感心さえしてしまう。店員にNOと言えなかったわけだから、実にカワイイものである。

 

しかし、この経験は自分を大きく変えた。ファッションと言うものの重要性を身をもって理解できた。ここから私はすごく拘るようになった。とにかく何がどうしたら似合うのかと言うのを考えるようになった。店員の褒め言葉にも一切耳を貸さなくなったし。当然要らないものは買わなくなった。

 

逆に自分に合ったサイズ合ったデザインのものを着ると全く見た目が変わる(素晴らしく良くなる)ことも同じくらいの時期に体験し、これがより一層服に対する執着を加速させた。

私は基本的にブランドものは好きではない。まず買わない。いいなと思ったものが、有名なブランドだった場合は買うこともあるが、先にブランドの名前で買いたいと思ったことは一度もない。いわゆる高級ブランドはむしろ嫌いである。

ただ、すごく嫌なのが自分はイイなと思って買った、当時それほで有名でもなかったものが、のちにすごく有名になってみんな着るようになったヤツである。

人から見たら流行ってるから買ったと思われるのがすごく嫌だ。こっちは何年も前から着とるんじゃ、ボケ。恥ずかしい。そーゆーのが二つくらいある。とっても嫌だ。

 

さて、ブランド品の話の続きだが、質の良さは認めるし、高品質を求めたら欲しくなるのは分かる。が、幾ら何でも高過ぎる、あんなものに大金を出すのはアホだと思っている。値段が尋常ではない。そこにはなんの価値も無い。虚栄心を満たすくらいのものでしかない。

特にカバンや財布なんて最悪である。

服は着心地、軽さ、デザイン、シルエット、ドレープ感、質感、織り、素材のランクなどが圧倒的に違ってくるし、着るものだからまだ(にしても高過ぎる)分かるが、カバンや財布は肌に触れないし、革のランクはもちろんイイし滑らかで柔らかかったりするのは認めるが、あんな誰がどこから見てもすぐそれと分かるようなものはハッキリってダサい。デザインもダサい。

 

話が逸れた。

 

とにかくそう言う訳で、その後もなんども失敗しながら、自分に似合うものを考え研究し買うようにしてきた。

しかし、ファッションには流行という意味もあるように時代性というのがあるし、自分の趣味も変わる、歳も取る(体型は変わらないのになぜか若い時の服が似合わなくなる)ということで変化の必要に迫られるタイミングがある。

これがまた大変で、失敗が多くなる。

しかし、歳を取っても失敗が少なく且つお洒落に気を使っているように見え、さらに大して考えなくて済む方法が一つある。

 

コンサバである。

 

これがとても便利なので、歳を取ってもダサくは見られたく無いが、真剣に服のことを考えるのも面倒だという人は大抵コンサバに行く。実際本人たちにその意識はあまり無いとは思う。ほぼ無意識にそうしていると思われる。

確かにそれなりの歳の一般人があんまり尖ったファッションをするのはかなり危険を伴う。ヤバイ人か若者かぶれのイタイ人に見られかねない。

 

だから歳を経た一般人のお洒落はとても難しい。芸能人は割と簡単だと思う。そもそも変な格好でも許容されているところがあるから。

 

私は年齢的にその変化の中にいる。何が正解か分からないから恐ろしいところがあるし、変化はお金もかかる。失敗も多少出てくる。

一時期はコンサバに流されそうにもなった。

でも、ファッションのことを考えるのはやっぱり楽しいし、退屈なのは嫌いなのだ。

 

そこで、最初の話である。

私は、はたと思った。

自分はこんなにもファッションが好きだったのかと。まだ情熱があるなと。

 

いろんなものに対する情熱が失われていくのを感じる中でファッションがまだ残っているのは意外である。自分でも驚いている。

 

 

 

 

恋するということ

常々疑問に思っていたことがあります。

恋愛というやつは、ホモ・サピエンスなら皆するのでしょうか?

 

所謂恋心というやつは皆抱くのでしょうか。

友人にはそういう感情がほとんど無い人がいますので、皆そうだとは言えない気がします。しかし、その友人とて何の感情も無いという事は無いと思われます。ただの性的欲求だけではなかろう、と思うフシもあるにはある。ただ、一般的な人より熱量は小さい。かなり小さい。燃えるような恋、というものはその友人には無さそうです。

 

さて、今回問題にしているのは、そういう個人的な性質ではなくて社会的な条件、とでも申しましょうか。

 

ずっと昔から思っていたんですが、恋愛出来るって幸せだな、もっと言うと平和だなって。

要するに逆に言えば平和じゃ無いところで恋愛感情って生まれるのかなって思うのです。

吊り橋理論とか、そーゆーのはやめましょう。

 

明日、死ぬかもしれない状況であの娘が好きだのあの人が好きだの言ってられるのか、と。そもそもそんな感情がおこるのか。

 

考えました。

例えば日本。現代日本は平和です。コレがある日突然戦争状態になるとします。この場合、恋愛感情というものは変わらず起こると思います。しかし3世代4世代に渡って戦争が続いた場合恋愛感情というものはなくなるんじゃ無いかと思います。とりあえず子孫は残さなきゃなという事でやる事はやるでしょうが。

 

私の考える理由はこうです。恋愛感情って刷り込みの要素がかなり大きいんじゃ無いかと思うのです。そして(最高の)娯楽だと思うのです。

現代人は長年に渡って恋愛の型を刷り込まれていて、知らないうちにそれをなぞっていると思うのです。むしろなぞりたいと思ってるところもあるし。

平和は言い換えれば退屈という事で、刺激が無い。恋愛は刺激である。退屈な日常が違って見える。コレこそが恋愛の最大の効用だと思うのです。

 

戦時下は刺激だらけで子孫を残すという至上命題がある以上、娯楽性には乏しいのじゃなかろうか。

 

故に生まれた時から戦争してる国の子供達は年頃になって恋心なんぞ抱くのかしら。

それを知りたい。

 

自分が恋愛の只中にいる時に思った。なんて平和なんだと。

だって、そーゆー時の幸せのヴィジョンって、恋人が朝起きたら隣にいて寝顔が素敵で、はぁ幸せ。とか、日曜の朝の日差しが窓から差し込むリビングで、コーヒーを飲みながら朝食を一緒に食べて、あぁ幸せ。とか、手を繋いでショッピングや散歩や旅行や食事に出かけて、ふぅ幸せ。とかいうのしか出てこない。

 

よーするにヴィジョンそのものが平和(と経済的余裕)が前提でなければ成り立たないものなのです。だから、言い忘れていましたが、極端に貧しい国でも恋愛って起こり得ないと思います。

 

爆撃と瓦礫とそれに埋もれた防空壕で恋愛も何もあったもんじゃ無い、というのは容易に想像がつく。

早い話、精神的余裕が恋愛感情を生み出すのではなかろーか、というのが私の見解でございます。

 

なんだか、まとまりが無くなってきたので、今日はこのへんで。

 

 

LGBTについて

はじめに断っておくが、私はLGBTの人々に対してなんの想いもない。

否定的でも無ければ肯定的でも無い。こうして書く以上無関心でも無い。

世の中にあることの一つ、多くの事象の一つという認識。

 

ではなぜ話題にするのか。

私は不思議なんです。LGBTの主張が。差別をなくしてくれという主張が。

本当にLGBTの人々自身が声を上げているのかも分かりませんが(もしかしたら別の得をする誰かが扇動しているのかもしれないし)パレードをして私達に自由を!みたいなのがよく分からないのです。

 

いや、分からなくは無い。心情的にはよく分かる。

もしかしたら、LGBTの人たち本人ではなく、それを応援する周りの人たちの主張が分からないのかもしれない。

 

早い話、LGBTだけが差別されているわけでは無い、と言うことをいつも思う。

話題に上るたびにいつも思う。

例えば、同性結婚の話にしたって、何故ダメなのか、結婚できるようにして欲しいと思う気持ちは分かる。しかし、考えてみて欲しい。そのように当事者から見れば不当だと思えるような事は世の中にいくらでもある。

良い例が思いつかないが、例えば税金。頑張って稼げば稼ぐほど所得税が上る。当事者からすれば納得いかない人もいるだろう(私は金持ちじゃ無いので歓迎です)

例えば、交通ルール、一旦停止や速度違反の取締は隠れてやられるが、本来の趣旨から行けば、見えるところに警察官が立っていた方が余程効果的だし、納得ができる。しかし、長い間そう言われていても改善されないし、違反は違反で罰金を取られる。

 

当事者にとっては不当でも法律で決められていれば、皆それに従っている。

 

きっと皆さんはこう言うだろう。論点がズレている、LGBTの問題は『何故』の部分が不当だと言う主張であると。

税金の例えでは何故は論理的に説明可能だから例としては適切ではないかもしれないが交通違反に関しては同じ問題を含んでいる。

なぜ、制限速度が40kmなのか、なぜここが一旦停止なのか、(なぜ同性どうしでは結婚できないのか)一切説明がない。根拠が分からない。正直言って全く意味不明な一旦停止のある場所が世の中にはある。

しかし、違反は違反で処理される。法律ですからで終わりである。

だからと言ってレインボーフラッグを持って抗議など誰もしない。

 

もっと分かりやすくLGBT問題に近いことで例をあげれば、例えば身長である。

低身長の人(男女問わず)は法律では差別されてないかもしれないが、世の中では様々な差別(とよんで差し支えないような状況)に遭遇していると思う。

 

アメリカの大統領は身長が低いとなれないと言われている。威厳がないからだとか、世界の首脳と並んだ時に恥ずかしいだとか、そう言う話を平気で聞く。

世の女性たちだって背の低い男は絶対イヤだと言うことを平然と言う人も沢山いる(ブスや貧乳は嫌いだと平然と言う男性も沢山いる)

これを差別と呼ばずになんと呼ぶのか。要するに意識するしないに関わらず、そう言う事は世の中に溢れている。

タクシー運転手や掃除夫や社内のメール便配達人などは、よく映画で下層の人の仕事の代名詞として平然と描写される(コレだってどう見ても差別だろ)。映画がなくたって、そう言う風に認識してる人は多いはずだ(無意識でも)。

 

自分でどうすることも出来ないことで差別されるのは沢山のある。

小さい人はみんな抗議しているのか? ブスはみんな抗議しているのか? 否。

それを受け入れ、あるものは道化を演じることでそれを生かす、あるものは知力をコミュニケーション能力をファッションを立居振る舞いを高めることで生きていく。

 

身体的に外から見て分かるものと違いLGBTは自ら公表しなければ分からない話である。自ら公表するのは自分を抑圧して生きるのは辛いからだとか言うが、他に問題を抱えて言えない人だって沢山いると思う。

しかも、自分の意思で公表したのだから、ある程度の事態が起こるのは予測されるはずだし、そのくらいの覚悟を持って公表すべきだと思う。その覚悟がなければ黙っていれば良い。

 

私が言いたいのは、何故、彼、彼女らだけがとても差別されていると考えられているのか、と言うことである。

取り上げるマスコミが悪いのか、もしかしたら影で扇動している誰かが悪いのか知らないが、LGBTの人々に対する世の中の反応は異常だと思う。その他大勢の中の一人に過ぎないと言う認識に何故ならないのか。

 

世の中にはそう言う人がいるし、良いも悪いもないし、他にも問題を抱えた人は沢山いるし、もっと虐げられてる人も沢山いる。

 

被害者意識の大きい主張を聞いて、居心地の悪さを感じる。

自分達だけが不当に差別されているなどと考えること自体とんでもなく不遜で厚顔無恥な態度ではないのか。

 

もう一度言うが、私はLGBTの人々に対してなんら特別な感情は無い。

否定も肯定もしない。ただの一般の人ということしか思わない(つまり何も思わない)

世の中は自分以外はみんな変わった人である。

 

だからこそ、ああいう自己主張の仕方には違和感を覚える。

 

LGBTだから会社の面接に落ちたとかいう人がいるが、それを言い出せばブスだから落ちたとか、チビだから落ちたとかいう人もいる筈である。絶対にいると思う。だが分からない。それは公表されないから。

 

世の中は不当で不公平で偏見に満ちたものなのです。不平不満は自分達の仲間内で言うに止めることをオススメする。大きな声でいう事ではない。

 

 

 

 

 

恋人というもの

さて、つい先日東京に遊びに行ってきた。

友人二人と友人の恋人一人、そして私の四人。

 

東京に遊びに行ってきた、と言うからには、私は地方の人間である。

そして女である。

私以外全員バツイチである。

 

まず、話をし易くするために、恋人のいる友人をAとし、いない友人をBと呼ぶことにする。

 

旅の主目的はAの個展のための絵の搬入である。

夕方に東京に着き、夜に搬入、展示を終え、飲み屋を何軒かハシゴをしてホテルに戻った。

 

Aとその恋人は別のホテルだったので、翌朝(正確には翌日の正午)までは何をやっていたのか知らない。

正午にGINZA SIXで再開昼食。

その前に私たち二人はショッピングをして私はコートを買った。Bも冬物の上着を買った。とても満足。

 

GINZA SIXで昼食後、なんだかんだあって、夜七時に帰宅。

 

さて、恋人というものは一緒にいると中々大変そーだ。

私たちは車で移動していたのだが、途中、道がわからなくなってしまったことがあった。そこで助手席にいた恋人に携帯のナビで道を探してもらったのだが、ラブホテルを検索した履歴があったらしく、そこで一悶着起きることになった。

 

なぜ履歴があるのか云々。。。そんな事してない云々。。。じゃあ、なんで履歴があるのか云々。。。知らないよ云々。。。(以下繰り返し)

 

ちょっとした地獄である。気を遣う。どちらの味方にも敵にもならないように。

 

さて、ここで問題です。

”さて”は何回出てきたでしょうか。

と、いうのはどーでも良くて。

問題

この話に登場する人物の性別構成はどーなっているでしょうか。

Aは? Bは? Aの恋人は? そしては?

 

 

正解は

「わからない」

 

私は女であると前半に提示してはいるがホントかどうか確認の仕様がない。

他の三人に至っては言わずもがなである。

私自身がどう読むかと言えば、友人は自分自身と同性と考えて話を読むだろうし、友人の恋人は異性だと考えるだろう。

この話の場合は”私は女である”という宣言があるので、友人は女性でその恋人は男性として読むと思う。

 

しかし、世の中には同性の恋人を持つ人もいれば、異性の友人を持つ人もいるので、答えはわからない。

何が言いたいか。

一般的に言って明記されていない事でも、無意識に自分の生活環境 (友人の男女の構成比、恋人が異性か同性かなど)に寄せて読んでしまうものだなぁ、という事である。

つまり、いつでもどこでも人間は騙される可能性があるということ。

 

さて、私は女? 男? フフフ。